• 検索結果がありません。

添谷芳秀 「日本外交分析の回顧と展望――安全保障政策を中心に」 JAIR | 日本国際政治学会における国際関係論

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2018

シェア "添谷芳秀 「日本外交分析の回顧と展望――安全保障政策を中心に」 JAIR | 日本国際政治学会における国際関係論"

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1

日本国際政治学会 制度整備・自己点検タスクフォース企画

「日本の国際関係論の再検討――

『外圧反応型国家』としての 日本外交をめぐる研究の位相」

日本外交分析の回顧と展望

―安全保障政策を中心に―

慶應義塾大学 添谷芳秀

はじめに

戦後日本の安全保障政策を規定してきたのは、戦後憲法と日米安保条約をセットで抱え ることとなった「吉田路線」であった。そのいずれもが、日本の「自立」に対する根本的な

制約となってきたことは、改めて強調するまでもないだろう。その制約は、日本の対米「依

存」を不可避とした。その結果、戦後日本の安全保障政策は、「自立」(の欲求)と「依存」

(の現実)の狭間で、一定の「主体性」を確保すべく展開されてきたといえる。

学会タスクフォースによる本企画の共通テーマである「外圧反応型国家」の概念に沿って

いえば、安全保障政策における「外圧」とは、対米「依存」のひとつの類型といえそうであ

る。ただし、圧力で動くことを意味する「外圧」と、「主体性」を模索する際の前提として

の「依存」との間には、本質的な相違があるだろう。

では、戦後日本の安全保障政策の策定において、「依存」が事実上の「外圧」として作用

したケースとはどのようなものであったのだろうか。典型的なのは、日本の対米「依存」を

前提とする日米安保関係を損なわないために、米国の要求に応じて日本政府が防衛費増額

要求に応えたり役割分担に取り組んだ場合である。そこでは、対米「依存」の不可避性ゆえ

に「安全保障のジレンマ」論のいう「見捨てられの恐怖」が生まれ、米国による「圧力」が 効果をもつと考えることができる。

しかし、日本の安全保障政策の展開において、そのようなケースがみられたのは一時的な

いし例外的であった。むしろ、対米「依存」を前提として受け入れた上で、日米安保関係と

日本の自助努力の均衡点を探ってきたのが、日本の安全保障政策の主要な流れであった。そ

してそこで模索された日本の「主体性」とは、それぞれの時代の安全保障環境への対応にフ

リーハンドを行使しようとするものではなく、特定の脅威に対して所要防衛力で備えよう とするものでもなかった。

それは、憲法九条を基点とする法的な制約を厳密に解釈し、政治的には日米安保関係の枠

を超えない慎重な外交路線であったといえるが、多くの日本の世論や政治勢力を満足させ

(2)

2

である日米安保条約を土台とする日本外交の枠組みは、自ずとねじれを抱えていたからで

ある(添谷 a)。その結果日本の政治社会勢力は、護憲の立場から冷戦の「虚構性」を説き

日米安保を批判する「左」と日米安保を受け入れつつも改憲を胸に秘める「右」とに分裂し、

日本政府の安全保障政策は、そこに展開された外交論議とはかけ離れたところで模索され ていくこととなった。

高坂正堯は、そうした外務省主導の外交を「職業的外交に、いわば逃避している」と嘆き、

「外交路線と外交論議が、あたかも全然別物であるかのように、平行線を走りつづけるとい

う奇妙な現象」を指摘した「(「外交政策の不在と外交論議の不毛」高坂a、51頁、52頁)。

他方、永井陽之助は、同じ 1960 年代の日本外交を考察した論考で、「日本の国際政治にお

ける真の地位を知るがゆえに、“石橋をたたいて渡らない”式の外務官僚の保守主義と、何も

知らないがゆえに、“何でも可能である”と思いこみ、自主外交をさけぶ一般国民のムードと

の乖離」に危機意識を表明した(「日本外交における拘束と選択」永井a、72頁)。

いずれも、外務省主導の日本外交および安全保障政策と、日本社会の受け止め方との間の

ギャップを指摘したものと読むことができるだろう。やや単純化していえば、そこからは

「左」の主張、「中庸」の外務省路線、「右」の立場という三つの外交路線を確認することが

できる。おおまかにいえば、学界における安全保障政策へのアプローチにも、同様の三つの

視角が存在してきたようにみえる。

上に述べた「依存」と「外圧」の関係に関してみれば、明示的な米国からの「圧力」行使 のケースを除けば、左右の立場からはそれぞれに「依存」の結果を「外圧」の結果と同一視 する傾向があるといえそうである。その種の記述の多くは、日本の対米「依存」を「従属」

と読み替える。他方外務省路線からは、「依存」はアプリオリの前提とされがちで、それが

「職業的外交」や「保守主義」的と批判されることには、「依存」が習い性になってしまっ

ていることと、世論の反応を軽視しがちな傾向の指摘が含まれているだろう。

さて、日本の外交研究は、上のような状況下での安全保障政策の展開をどのように分析し

てきたであろうか。以下、日本の安全保障政策を考察する際の切り口に関して私見を述べた

上で、戦後の重要な展開を選択的に取り上げ(その記述の多くは、添谷a, b, cに依拠して

いる)、諸研究がそれらの諸問題に対してどのようにアプローチし分析してきたかを、おお

まかに整理してみたい。なお、21 世紀に入ってからの日本の安全保障政策はそれまでの枠

組みからは外れる新たな諸条件や前提により変質しつつあるようにみえるため(添谷b, c)、

本稿での考察の対象期間は1990年代までとする。

憲法、日米安保、自衛隊、安保改定

戦後日本の国論は、戦争責任、防衛と安全保障、憲法等、国の骨格を決める基本的要素を

めぐって分裂してきた。そのことは、占領期の国際政治が、戦後処理を主眼とする国際秩序

構想から、当初は想定されていなかった冷戦へと、短期間で根本的な変化を遂げたことと深

(3)

3

日本の占領政策も軌道修正され、日本は米国の冷戦戦略に組み込まれた。 <憲法>

冷静発生以前の米国の構想は、日本の非軍事化を徹底し、日本の安全は国際連合による集

団安全保障によって確保しようするものであった。ここで重要なのは、そもそも日本国憲法

第九条の規定は、国連憲章第七章に基づく集団安全保障の考え方を前提にしていたという

ことである。さらに確認すべきことは、軍事的に無力化された日本は冷戦発生以前の戦後国

際政治の基本的な要件であり、憲法第九条は戦後国際秩序構想の下での日本のあり方につ

いての本質的なコンセプトを反映していた、ということである。こうして、国連憲章にして

も日本国憲法にしても、当時の国際政治の論理に深く根差して成立した制度として、独自の

生命力を宿した。

しかし、冷戦がはじまることによって、全く別の論理が生まれた。米国は自国の戦略の一

部として日本を位置づけ、はやくもその脈絡においては、憲法九条は国際政治の論理から遊

離したものとなった。にもかかわらず、憲法第九条を改正し軍事的にも自立すれば、戦後体

制の革命的変革に等しく、現実的に考えて日本にその選択肢はなかった。こうして憲法の改

正が困難な諸条件の下で誕生したのが、日米安保条約であった。 <日米安保>

しかしながら当初は、どのような形で米軍に安全を委ねるのかに関しては、必ずしもコン

センサスがあるわけではなかった。日本への米軍駐留に関しては、国家の体面や自尊心の観

点から外務省内部でも抵抗があった(吉田信吾「安保条約の起源」添谷編著)。また、共産

圏も含めた全面講和を求める護憲勢力からの抵抗も十分に予想できた。結局、米軍駐留を

「オファするような持ち出し方を研究してもよろしい」とする吉田の方針は、一九五〇年春

に訪米した池田勇人大蔵大臣により米国に伝えられた。

この過程の検証については、「天皇外交」という仮説が存在する。それは、天皇が無条件

の基地提供を日米両国の関係者に直接間接に進言したことを実証的に明らかにする。そし

て、それは天皇が国際共産主義による脅威に対して「米軍による天皇制の防護」を意図した

ものであると解釈され、その結果「基地の自由使用」を柱とする「占領体制」の永続化を望

むアメリカの目論見が実現したと論じられる(豊下a、b)。

以下でも確認するように、日米安保体制を米国による「基地の自由使用」の獲得に重きを

おいて考察し、それを日本の対米「従属」ないし米国からの対日「圧力」の結果として解釈

する研究は少なくない。ただ、「天皇外交」の仮説に関しては、それがどこまで決定的であ

ったのか、天皇の意向が吉田の選択とどこまで整合的だったのか、あるいはそうではなかっ

たのかは、必ずしも確かではない。

いっずれにせよ、こうして戦後の日本は、全く異なる国際政治環境を背景にして生まれた

憲法と日米安保の双方を抱え込むことになった。憲法と日米安保条約の間には本質的な矛

盾があり左右の政治対立を生む一方で、歴代政府は、日米安保(日米基軸主義)があれば憲

(4)

4

当時、日本が軍隊を持つためには憲法九条の改正が必要であるというのはほぼ常識的理

解であった。しかし、憲法改正が困難な中で、1954年の自衛隊創設の契機は米国からもた

らされた。具体的には、1953年に、ダレス国務長官が米国の相互安全保障法(MSA)に

基づく対日援助を行う用意があることを正式に発表したことが重要であった。MSAは、被

援助国に対して自国の防衛に必要な措置をとることを義務づけていた。

日本では、その直前の1952年10月、保安隊が発足していた。朝鮮戦争勃発直後の1950

年 8 月に、日本に駐留する米軍が朝鮮戦争に出動した後の空白を埋めるために、GHQの

指令を受けたポツダム政令により警察予備隊が設立された。保安隊は、その警察予備隊が発

展的に改組されたものであった。吉田茂にとってそれは、「新軍備の基礎であり、新国軍建

設の土台」でもあった(田中c、88頁)。こうして日本は、自国防衛と復興援助をセットに

する米国の働きかけにこたえた。

自由党総裁でもある吉田首相は、1953年9月末に改進党の重光葵総裁と会談し、直接侵

略に対抗できる自衛隊を創設することで合意した。そして、翌10月に腹心の池田勇人蔵相

を米国に派遣した。池田は、ウォルター・ロバートソン国務次官補との会談で、「防衛五カ

年計画」を私案として提示した。三十数万人規模を求める米国の要求との開きは大きかった が、これが事実上自衛隊創設の対米公約となった。こうして、1954年6月に防衛庁設置法

と自衛隊法(いわゆる防衛二法)が成立し、7月1日に自衛隊が発足する。

その年の11月、吉田の「向米一辺倒」を批判し改憲を唱える保守勢力は、新たに結成さ

れた日本民主党の下に結集し、鳩山一郎が総裁の座に就いた。そして、12月10日、鳩山を

首班とする選挙管理内閣が誕生した。その鳩山内閣の最初の大仕事が、7月に誕生した自衛

隊と憲法の関係を整理した政府統一見解の作成であった。それは、12月22日の衆議院予算 委員会で、大村清一防衛庁長官によって発表された。

その後、憲法第九条を堅持したまま自衛隊という名の事実上の軍隊を保持できるとする

政府解釈が、歴代政権に引き継がれていくこととなる。公然と改憲論を唱えてきた鳩山一郎

の手によって自衛隊合憲論が取りまとめられた結果、憲法第九条の改正による再軍備とい うそれまでの改憲論は急速に影を潜めることとなる。

<安保改定>

当時改進党から日本民主党へと流れた保守的政治家の多くは、吉田が敷いた路線への不

満と反発を、憲法改正と日米安保条約改定の主張の中にこめていた。したがって、憲法第九

条改正の論理があいまいにならざるを得なくなると、吉田路線修正の意欲は日米安保条約

の改定に向けられた。事実、吉田が結んだ日米安保条約は、米国による対日防衛義務が不明

瞭であり、期限が無く、内乱への介入が正当化されている等、国家主義的観点からは不満が

残るものであった。それは、後の岸信介内閣による改定の誘因となった。

米国は、1955年8月に鳩山一郎民主党内閣の外務大臣重光葵が訪米した際に、その日本

の要求を公式に認知した。重光外務大臣とダレス国務長官との間で8月31日に発表された

日米共同声明が、日本が「国土の防衛」と「西太平洋における国際の平和と安全の維持」の

(5)

5 とを適当とすべき」と謳ったのである。

鳩山や重光の原点にあったのは、米国に安全を委ねることで防衛安全保障を確固たるも

のにしようという吉田の感覚とは対照的に、日本の「主体性」を希求するナショナリズムで

あった。事実、訪米に先立って東京の米国大使館に提出された「重光私案」は、安保条約改 定後六年以内に米地上軍を撤退させ、それからさらに六年以内に米海空軍を撤退させるこ

と、およびその間在日米軍は相互防衛のためだけに使用されることを提案していた。そこで

は、米国の束縛から自立することが自己目的化しているかのような衝動が前面に出ていた。

しかしながら、というよりだからこそというべきか、重光訪米に同行した岸信介が感じたよ

うに、ダレスの態度には「木で鼻をくくったような」雰囲気があった。

岸内閣のナショナリズムは、警察官職務執行法の試みや日本教職員組合への介入等、「逆

コース」と呼ばれた一連の政策も触媒となり、日本の政治と社会で左の中立主義をいっそう

勢いづけた。国際政治全般においては、上述の朝鮮戦争休戦やインドシナ戦争休戦に加え、

スターリン死去(1953年)とニキータ・フルシチョフソ連共産党第一書記によるスターリ

ン批判(1956年)、ソ連・西独国交樹立(1955年)、フルシチョフ訪米(1959年)と、冷

戦の「雪解け」ムードが高まった。そうした中、第五福竜丸の被爆等で高まっていた日本の

反米中立感情はいっそう刺激された。

こうした日本国内の流れに危機感を持った米国は、改定には憲法改正を前提とするとい

う発想の軌道修正を図り、1958年夏には、日本の憲法を前提として安保条約の改定を進め

る意向を日本側に伝えた。その結果1961年1月19日にワシントンで調印されたのが、現

行の「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」である。

また、条約と同時に「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条

の実施に関する交換公文」が交わされた。いわゆる「事前協議制度」と呼ばれるものであり、

その協議において日本の主体的判断が示される余地が確保された。とりわけ、極東条項とよ

ばれる第六条に基づく米軍の戦闘作戦行動に際して、日本の同意が必要とされたことが重 要であった。

以上のとおり、改定された日米安保条約において日本のいくらかの「主体性」は確保され、

岸がスローガンとした「日米関係の対等化」はわずかながら達成された。しかし、より大局

的にみれば、新たな安保条約の下でも、日本の安全を米国の保護に求めるという「依存」の

論理と、地域的そしてグローバルな戦略の一環として在日米軍を意義づける米国の論理に 基本的な変化はなかった。

<考察>

以上のとおり、憲法、日米安保、自衛隊という三つの要素から成立した戦後日本の安全保

障政策の枠組みには、三つの矛盾ないし緊張関係が存在した。最大限個別的自衛しか許さな

い憲法と集団安全保障を定める国連憲章の間の矛盾、憲法と本来は集団的自衛の仕組みで

ある日米安保条約の間の不整合、そして憲法と自衛隊の間の緊張関係である(滝田賢治「平

和憲法と日米同盟の狭間で」井上他編)。

(6)

6

題に完全に無頓着ではないながらも、吉田の選択を源流とする戦後の枠組みを、基本的に日

米の利益が一致したものとして描く傾向にある(五百旗頭)。そこでは、米国の東アジア戦

略の中の日本の位置づけと生存を確保しようとする日本安全保障政策が、調和的に描かれ

る。たとえば、日米安保、再軍備、米国による琉球諸島の戦略的支配という三つの局面が、

日本の安全保障確保の手段として、実証的に考察される(楠)。

また、吉田の選択は矛盾を抱え左右から激しい批判にさらされてきたにも関わらず、長い

間生きながらえてきたことの説明として、国内政治過程に着目する一連の研究が存在する。

講和から1955年までの政治過程から「再軍備の『55年体制』」が成立したとする考察(上

村)、戦後日本型政軍関係に着目し吉田路線が安全保障政策の準拠枠組みとしての形を整え

る過程の解明(中島信吾)、日本の政治が種々の緊張関係に向き合うことを避ける中で自衛

隊や防衛政策の問題を文民統制の進展として分析した研究(佐道b)等である。

いうまでもなく、米国の戦略的視点からみた日本の再軍備関係の客観的な実証研究も重

要である(増田)。さらに、日本の再軍備の対外的側面としては、日米関係の枠を超えて、

イギリスの意図と戦略も含めた西側安全保障体制に組み込まれた日本の再軍備という視点

を強調する研究もある(柴山)。

上述のとおり、安保改定に取り組んだ鳩山内閣と岸内閣の動機は、日米の「対等化」であ

った。それは日米安保の「双務性」の追求であり、その政府の意図を実直に読み解けば、日

米安保は「モノ」と「ヒト」の対等な交換という構図になる(坂元)。それに対して、「双務

性」という名の下に、日本が米国の東アジア戦略に組み込まれたという実態を、どちらかと

いえば対米「従属」的視点から描くものも少なくない(原、室山)。そうした日本の「主体

的」判断と関与の不十分さは、とりわけ沖縄米軍基地問題の視点からみればより際立つ(我

部)。

その後者(我部)からは、安保改定の際の事前協議制度の導入の際に、極東有事の際の米

軍基地使用に関する、すなわち米国の軍事戦略に配慮した何らかの「密約」があったのでは

ないかという推測が生まれる。その「疑惑」は、民主党政権下の検証で明らかにされること

となった。すなわち、藤山愛一郎外相とダグラス・マッカーサーII大使との間で、朝鮮有事

の際に「国連統一指令部の元にある在日米軍による戦闘行為のため、日本の施設、区域は使

用され得る」という「朝鮮議事録」が残されていたのである(波多野、138頁)。

非核三原則、沖縄返還、「密約」

安保改定で日本の政治と社会に戦後最大の混乱を引き起こした岸が辞任すると、1960年

7 月に池田勇人が首相となった。池田は、防衛や安保問題を意図的に非争点化し、「所得倍

増計画」に国民の関心とエネルギーを誘導した。

対照的に、1964 年 11 月に病気退陣した池田の跡を継いだ佐藤栄作は、首相に就任早々

水面下でナショナリズムに突き動かされる動きをみせた。同年末、翌年の訪米に備えてエド

(7)

7

問題をリンドン・ジョンソン大統領との会談の議題にしたいと申し出たのである。佐藤の

「率直さと熱意」に「容易ならない危険性」を感じた米国は、復活しつつある日本の国家的

自尊心を核武装に向かわせないようにすることを、その後の対日政策の一つの基調とした。

ジョンソンの後に政権を担ったリチャード・ニクソン大統領やヘンリー・キッシンジャー大

統領補佐官が、「ニクソン・ドクトリン」に基づく米国のプレゼンス縮小後に日本の再軍備

や核武装の可能性を心配していた背景には、佐藤の核武装論に刺激された水面下での「『同

盟国日本』像の転換」があったのである(中島信吾)。

また、米国が水面下で佐藤の核武装論への戦略的対応を真剣に模索したころ、日本の国会

は 1968 年に調印された核拡散防止条約(NPT)の批准問題で揺れていた(黒崎)。批准

を躊躇した多くの政治家の心理にあったのは「将来における核保有の選択肢を閉ざせば、日

本は永久に二等国に成り下がる」といった大国意識であり、そこに合理的な国家戦略として

の核武装という発想はなかった。日本の外交戦略論としては、むしろ、佐藤内閣の防衛庁長

官として中曽根康弘が1970年に公然と唱えた「非核中級国家」論の方が合理的であった(添

谷a)。NPTの批准に躊躇する日本の姿は、1950年代から諸外国に根強く存在する「日本

核武装論」を刺激した。

しかし、米国の政策のいかんにかかわらず、吉田路線が定着した日本に、核武装の選択肢

はなかった。岸首相は、1957年5月に、自衛権を否定していない憲法九条の論理からして、

核保有も合憲という解釈を表明していた。核兵器と通常兵器を区別しない法理論は、佐藤が

率直に核保有への興味を示したこと、および日本の国会がNPTの批准に逡巡したことと、

心情面ではつながっていたのだろう。しかしそれは、吉田茂が置き去りにした自尊心が吉田

路線に不適合を起こした現象に他ならなかった。

結局のところ、当初は米国に日本核武装を提起しようとした佐藤は、自らの最大の外交課

題として取り組んできた小笠原と沖縄の施政権返還が実現する過程で、日本外交の基本方 針として「非核三原則」を定着させた。

佐藤は、首相就任に備えた「Sオペレーション」とよばれる政策検討で、沖縄返還を佐藤

のいう自主外交の優先課題にすえた。そして、首相就任早々の1965年1月の訪米で、早速

沖縄返還問題を提起した。そして、同年8月に沖縄を訪れ、「沖縄の祖国復帰が実現しない

限り、わが国にとって戦後が終わっていないことをよく承知しております」と述べ、沖縄返

還にかける強い意気ごみを表明した。

当時沖縄返還にともなう日本国内の大きな関心事は、返還後の沖縄における軍事基地、と

りわけ核兵器の問題であった。1967年11月の佐藤・ジョンソン会談では、沖縄の返還につ

いて「両三年内に双方の満足しうる返還の時期につき合意すべきである」との共同声明が発

せられるとともに、小笠原諸島の返還が合意された。佐藤は、同年12月に小笠原の返還方

式についての国会質問に答えて、「本土としては、私どもは核の三原則、核を製造せず、核

を持たない、持ち込みをゆるさない、これははっきり言っている。その本土なみになるとい

うことなんです」と、非核三原則をはじめて明らかにした。

(8)

8

領との会談においてであり、沖縄返還協定は、1971年6月に調印された。そして、沖縄返

還協定が批准される過程において、野党への政治的譲歩として、佐藤がかつて表明した非核

三原則の国会決議が行われることになる。すなわち、11月下旬、「非核兵器ならびに沖縄米

軍基地縮小に関する決議案」が採択され、沖縄返還協定が衆議院を通過したのである。

しかし、非核三原則は、米国極東戦略を根底から覆しかねないものでもあった。日米安保

関係を基軸とする日本外交が、その米国の戦略に無関心でいられるはずもなかった。1969

年11月の佐藤・ニクソン共同声明は、ニクソンが「日米安保条約の事前協議制度に対する

アメリカ政府の立場を害することなく」沖縄返還を確約した。そして佐藤は、同共同声明で

「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である」、「台湾地域における平和と安全の維

持も日本の安全にとってきわめて重要な要素である」と述べた。いわゆる「韓国条項」およ

び「台湾条項」である。そして佐藤は、ナショナル・プレス・クラブでの演説で、韓国に対

する武力攻撃が発生し米軍が日本を基地として使用する場合には、「事前協議に対し前向き

にかつすみやかに態度を決定する方針であります」と付言した。

長い間、佐藤とニクソンが、この事前協議の対象に沖縄への核兵器の持ちこみと通過の権

利が含まれるとする「密約」を交わしていたことが示唆されてきた(若泉)。その後「密約」

の解明は、2009年に誕生した民主党政権下で進められた。その結果、沖縄返還後の核兵器

の再持ち込みに関する「合意議事録」(密約)が、1969年の佐藤・ニクソン共同声明と同時

に作成されていたことが明らかとなった。そこで佐藤は、「事前協議が行われた場合には、

遅延なくそれらの必要を満たす」ことを約束していたのである(波多野、250頁)。

それは、「密約」という手法の是非はともかく、日米安保関係の論理からすればあっても

おかしくない話ではあった。いずれにしても、沖縄返還と非核三原則がセットで成立したこ

と、そしてそのことが日米安保関係の枠組みを確認する過程をともなったこと、そしてそこ

に「密約」が存在したことは、憲法と日米安保体制の間の歪みを彷彿とさせる展開であった。

<考察>

沖縄返還に関する先駆的な研究は、70 年安保への危機感に基づく日米両国政府の提携関

係という側面から返還にいたる過程を考察し、日本政府にとって、沖縄返還は、対米関係構

築という日本の自立的な政策課題として追求されたことを論じる(河野)。

同様に日本の自主性と対米協調のバランスを重視する研究は、返還を可能とした安全保 障上の条件に着目して沖縄返還交渉を描き、その結果日米安保体制の内容が東アジアの地

域的文脈から読みかえられたとする(中島琢磨a)。

それとは対照的に、「沖縄からみる限り、残念ながら日本は独立国でも、主権国家でもな

い。・・・、米国の『属国』にすぎない」という沖縄からの視点がある(前泊博盛「安保を

めぐる日本と沖縄の相克」島袋・阿部編、21頁)。その視角からは、日本の対米協力は、日

本の地域安全保障への関与というよりは日本防衛のための代価として位置づけられ、米国 は日本を守らないかもしれないという「同床異夢の日米同盟」が強調される。

(9)

9

が沖縄を襲うという構図が確認できる。それは「密約」の温床でもあり、沖縄基地問題に集

約される日米同盟の歪みから脱するためには、日米安保に依存する構造から脱皮する日本

の秩序構想と安保構想が求められることが主張される(我部)。

上述のとおり、今では、1969年の佐藤・ニクソン共同声明と同時に沖縄返還後の核兵器

の再持ち込みに関する「合意議事録」(密約)が作成されていたことが明らかとなった。一

方では、日米安保体制を日本の対米「従属」の仕組みとみる基本的視点から、「密約」を、

日米間の非対称性を前提とし、核に関して特殊事情を抱える日本をコントロールする米国

の「同盟管理政策」として捉える見方がある(太田)。一種の「外圧」論である。他方、「密

約」の内容そのものは日米安保関係に大きな影響を与えるものではなく、問題は公表されて

いれば国内政治の危機が生まれることにあるとされ、その意味で国内問題としての「密約」

であったという指摘もある(波多野)。

1970年代-防衛計画の大綱と日米ガイドライン

1970年代に入るとニクソン政権は、米中和解と米ソデタントによって、新たな米中ソ戦

略関係を築き冷戦構造の大転換を図った。そして、1973年1月27日のパリ和平協定でベ

トナム停戦が実現し、1975年8月1日には全欧安保協力会議でヘルシンキ宣言が採択され、

国際政治はデタント(緊張緩和)の時代を迎えた。

その時ニクソン政権は、日本に対して防衛やアジアの安全保障上の役割増大を求めた。そ

の理論的ベースとなったのが、「ニクソン・ドクトリン」である。1969年7月、ニクソン大

統領は、グアムにおける記者団との非公式会談で、核の傘の提供を含めた同盟国との条約上

の義務は守るが、防衛の第一義的責任はアジア各国に期待するという方針を表明した。それ

は、1970年代以降顕著になる、米国の日本に対する防衛力増強要求の走りであった。

同時にニクソン政権は、在韓米軍の削減を計画しながら、中国に対していずれ台湾からも

米軍を撤退させる見通しを伝えていた。そして、ニクソン訪中の段取りを整えるために1971

年 7 月に極秘訪中したキッシンジャーと周恩来中国国務院総理は、米国が撤退した後に日

本がその空白を埋める危険性について議論を交わしていた。

周恩来の危機感の具体的背景には、当時日本で策定が進んでいた「第四次防衛力整備計画

(四次防)」をめぐる動きがあった。そこには、佐藤首相自らが公言していたように、「ニク

ソン・ドクトリン」以降米国のプレゼンスが縮小する流れに乗じた「自主防衛」の意欲、お よび予想される脅威に対処可能な「所要防衛力」の発想があった。

しかしながら、防衛力を拡大しようとする動きには、米中の懸念とは裏腹に、日本国内か

らブレーキがかかった。たとえば、1970年11月に防衛庁防衛局長に就任した久保卓也は、

「防衛力整備の考え方」と題する個人論文を防衛庁内に配り、「所要防衛力」構想に異議を

唱え、日本の能力と脅威とのギャップには「緊密な日米関係」で対処するという考えを論じ

た。その構想は、防衛庁内でも特に制服組から不評をかったといわれるが、まさに、吉田路

(10)

10

結局、「四次防」は基本的にそれ以前の「三次防」を継承する形で1972年10月に成立し、

自主防衛の動きは頓挫した。その後、1974 年12 月に誕生した三木武夫内閣の防衛庁長官

に就任した坂田道太は、報告書の主要な執筆者となる高坂正堯らの民間有識者からなる「防

衛を考える会」を設置して提言を求めた。「防衛を考える会」は、1975年9月に「わが国の

防衛を考える」と題する報告書を提出した。それは、自衛隊の機能を「防止力(あるいは拒

否能力)」と定義し、「いかなる攻撃をも阻止できるという大きなものである必要はない」と

論じた。高坂の発案である「防止力」は、その後「基盤的防衛力」と呼ばれるようになる。

「防衛を考える会」の提言は、坂田防衛庁長官の全面的支持を得て、1976年10月29日

に閣議決定された「防衛計画の大綱」に反映された。大綱は、日本の防衛力は「限定的かつ

小規模な侵略までの事態に有効に対処し得るものを目標とする」とし、それを超える規模や

様態の侵略に関しては「米国からの協力をまってこれを排除する」と定めた。

「防衛を考える会」の議論が峠を越えたころの1975年8月、訪米した三木首相はジェラ

ルド・フォード大統領との共同声明で、日米安保条約の「円滑かつ効果的な運用のために」、

「両国が協力してとるべき措置につき,両国の関係当局者が安全保障協議委員会の枠内で

協議を行うこと」で合意した。それに基づき、1976年8月に日米防衛協力小員会第一回会

合が開かれ、その後二年にわたる協議を経て、1978 年 11 月に「日米防衛協力のための指

針」、通称「ガイドライン」が成立し、日米安全保障条約に基づく日米間の防衛協力の枠組

みがはじめて整えられた。

「ガイドライン」は、「侵略を未然に防止するための態勢」、「日本に対する武力攻撃に際

しての対処行動等」、「日本以外の極東における事態で日本の安全に重要な影響を与える場

合の日米間の協力」という三つの領域での日米防衛協力の指針を定めた。こうして、憲法第

九条を前提にした日本の自衛力と日米安保関係のあり方をセットでとらえる枠組みの制度 化が進んだのである。

もっとも、第三の領域に関しては日本の国内政治上敏感な問題を多く含み、内容について

は「日米両政府は、情勢の変化に応じ随時協議する」と、事実上先送りされた。日本による 米国の冷戦戦略への貢献はもちろん、地域やグローバルな安全保障に日本が参画するとい

う発想は、依然として乏しかったといえる。そこに変化が起きるのは、以下で検討する冷戦

後であった。 <考察>

1970年代の表面的な景色は、緊張緩和の時代に日本の安全保障政策の制度化および一定

の拡大が進んだというものであった。戦後日本のリベラルな視角からは、その底流に日本の

「右傾化」ないし「軍拡」の流れあったことが指摘された(大嶽)。

それに対し、1970年代が沖縄返還を経て冷戦体制からの脱却という秩序変動の時期であ

ったという見立てから、その時日本は、その先に待っている「大国間の協調と競争」という

名のゲームに参加するプレーヤーのひとりとしての「大国日本」はどう振る舞うべきかとい

う問題に直面した、とするマクロな観察がある(渡邊)。

(11)

11

戦が終焉した時に日本が直面した課題は、似たような構図の下にあったのかもしれないと される(田中b)。

他方、制度論的分析としては、1960年代までの日米安保体制の制度化の進展を、「米国が

日本に提供する安全の信頼性に疑念を抱いた日本政府と、日本の自立化を懸念した米国政

府が、日本の国内社会の反軍主義に配慮しつつ、相互の意図や行動に対する不安を軽減しよ

うとしたことの結果」とする考察がある。そして、1970年代の日米安保関係は、反軍主義

の低下により、同盟の公式化から軍事協力へと進展したとされる(吉田)。

総合安全保障論

1970 年代終盤から1980 年代にかけて、日本の外交は、日米安保体制で足元を固めたう

えで、総合的かつ多国間のアプローチを重視する方向へと発展していった。その礎を築いた

のは、1978年12月に福田赳夫に替わって政権を担った大平正芳であった。

大平内閣が発足してわずか一週間後の 12月15日には、ソ連に対抗する論理を前面にす

えた米中国交正常化の合意が成立した(正常化は1979年1月1日)。追いつめられたソ連

は、1979年12月にアフガニスタンに軍事侵攻し、米ソ関係は新冷戦へと後戻りした。

そうした最中、大平は、日本の「西側の一員」としての立場を一層明確にした。1979年

5月の訪米の際には、日米両国は「同盟国であるアメリカ合衆国との緊密で実り豊かなパー

トナーシップを通じて……重大な任務を共有している」と語り、日本の首相として戦後初め

てアメリカを「同盟国」と呼んだ。さらに、ソ連のアフガニスタン侵攻後1980年1月の施

政方針演説で、「たとえわが国にとって犠牲を伴うものであっても」日米協調を貫く姿勢を

強調した。その後、ソ連のアフガニスタン侵攻への対抗措置として、モスクワ・オリンピッ

クをボイコットするというアメリカの方針にも同調した。

その一方で大平は、政権につくや否や、九つの研究グループのひとつとして総合安全保障

研究グループを設け、総合安全保障政策の策定に取り組んだ。総合安全保障政策は、「大綱」・

「ガイドライン」が取りくんだ防衛政策を包摂する論理構成をもっていた。日本の自助努力

と日米安保体制を組み合わせた狭義の安全保障政策を、相互依存世界の中での総合的対応 の中に位置づけ、意義づけたのである。

大平は、1978 年 11 月の自民党総裁公選に臨むにあたって、基本政策のひとつとして総

合安全保障戦略を提起し、予備選挙で圧勝した翌日の11月27 日付「政策要綱資料」で、

「日米安保条約と節度ある質の高い自衛力の組合わせ」を補完するものとして、「経済・教

育・文化等各般にわたる内政の充実をはかるとともに、経済協力、文化外交等必要な外交努

力を強化して、総合的に我が国の安全をはかろうとする」総合安全保障体制を整えることを

唱えた。

総合安全保障研究グループの議長には、当時、財団法人平和・安全保障研究所理事長であ

った猪木正道が就任し、京都大学教授の高坂正堯が実質的に報告書の取りまとめにあたっ

(12)

12

に『総合安全保障戦略』と題する報告書をまとめ、伊東正義臨時総理に提出した。報告書は、

「軍事的な安全保障についても、政治・外交面においても、また、経済面においても、アメ リカがほぼ単独で維持するシステムに依存していればよかった時代は終わり、日本は自由

陣営の有力な一員として、システムの維持・運営に貢献しなくてはならなくなった」との判

断を示した。日本の安全保障への総合的アプローチを、自由主義陣営に立つ視点から国際シ

ステムの有機的な一部として位置づけたのである。

その上で報告書は、総合安全保障を「狭義の安全保障政策」と「経済的安全保障政策」に

分類し、さらにそれぞれを三つのレベルに分けた。すなわち、「国際環境を全体的に好まし

いものにする努力」、「自助努力」、そしてその中間にあって「理念や利益を同じくする国々

との連携」にもとづく努力である。その上で報告書は、日米関係、自衛力の強化、対中・対 ソ関係、エネルギー安全保障、食糧安全保障、大規模地震対策(危機管理体制)を、総合安 全保障という体系の中に位置づけて論じた。

総合安全保障のアプローチに対しては、軍事的側面への関与を回避するためのカモフラ

ージュではないかという根強い懐疑論が向けられた。事実、石油危機により経済安全保障へ

の観点が強まる中で、日本国内にそのような認識がないわけではなかった。たとえば、1976

年に自民党から分かれて結成された新自由クラブは、「総合的な安全保障」を基本的理念に

掲げたが、それは、「わが国の安全保障は、今後、軍事的側面に偏することなく、日米安保

体制も含めて、総合的すなわち、経済安全保障(資源安全保障・食糧安全保障・エネルギー 安全保障)の観点から抜本的な再編成が求められている」としていた。

確かに、当時の日本社会においては、一般的に、このような軍事的側面への「偏向」を嫌

い、経済的側面に力点をおこうとする発想は強かった。しかしながら、総合安全保障論に軍

事的役割を軽視する視点があったわけではなく、むしろそこには、力や軍事的側面を全般的

安全保障政策の枠組みの中に位置づけようとする発想があった。

こうした中、当初は所要防衛力の発想から自主防衛論を唱えた中曽根が、「大綱」・「ガイ

ドライン」から総合安全保障論へと傾斜し始めたことは、大変興味深い。中曽根は、日本の

安全保障は「外交努力や経済協力や世界の世論工作や資源政策その他の総合的な組み合わ

せで成り立つ」と主張し、自衛隊による防衛は「その総合的に組み合わせられた安全保障政

策のごく一部」であると論じたのである。 <考察>

総合安全保障論が軍事的要素を軽視したものではないことはそうだとしても、経済的相

互依存の深化という国際的潮流を背景にしていたことは重要であった。したがって、「全体

的なそして長期的な傾向としては、安全保障を考える場合、非軍事的な要素がますます重要

になってきている」とするスタンスは当然であっただろう(衛藤・山本、66頁)。

総合安全保障論を戦後日本の安全保障政策の展開という流れの中に位置づけると、まず

1960年代後半から日本の自立が議論されるようになったことが確認できる。それは、対米

依存関係の見直しを含んでいたが、国際システムの多極化がその日本の意欲を後押しした。

(13)

13

で日本の経済的繁栄の基礎をいかに安定させるかという二つの課題に直面したのである。

以上のように考察する中西は、総合安全保障論は「体制問題に関するイデオロギー的分裂を

克服しようとする意図も含んでいた」と論じた(中西寛「総合安全保障論の文脈」日本政治

学会編、108頁)。

「自主と同盟」という視座から自衛隊が防衛政策の中でどのように位置づけられてきたの

かを考察する研究は、中曽根内閣の時点で、安保中心主義で一つの決着がついたと結論づけ

る(佐道 a)。そうした流れに位置づけると、総合安全保障論は、自主と同盟が相克するプ

ロセスの中で、自主防衛的な政策志向を同盟を基軸とする枠組みの中に吸収する役割を果 たしたといえるのかもしれない。

冷戦後-日米同盟の再確認と防衛計画の大綱の改定

冷戦終焉後におきた日米安保体制の変化には、1994年の北朝鮮危機が大きく作用してい

た。核開発が疑われる北朝鮮が 1993 年 3 月にNPTからの脱退を通告すると、米国は、

1994年に、経済制裁発動を引き金とする朝鮮半島での戦争に備える態勢を整えた。

米国が臨戦態勢で臨んだ1994年の朝鮮半島危機に際して、日米の政策当局は、有事に際

して日米安保関係が有効に機能するものかどうか懸念を深めた。それ以前には、ソ連の脅威

の消滅にともない、日米同盟が「漂流」し始めていた(船橋)。1994年10月に米朝合意枠

組みが成立することで朝鮮半島危機は回避されたが、危機の最中に、日米政策当局者は、朝

鮮有事の際に日米同盟が機能しなければ、それは日米安保関係を深く傷つけるという懸念 を強く意識するようになっていた。そこから、日米安保関係の「再確認」のプロセス、すな

わち日米安体制係を救う試みがはじまるのである(秋山)。

それにやや先立つ冷戦後の新潮流の中で、日本政府は日米安保関係と防衛政策の見直し

に取りかかっていた。それは、1994年2月に細川首相の私的懇談会として設置され、「防衛

計画の大綱」の考え方の再整理を諮問された「防衛問題懇談会」での討議で本格化した。懇

談会の報告書(通称「樋口レポート」)は、同年8月に、細川、羽田両政権を継いだ村山内

閣に提出された。

報告書は、冷戦後の安全保障環境を不透明で不確実なものと性格づけ、「多角的安全保障

協力」、「日米安全保障関係の機能充実」、「信頼性の高い効率的な防衛力の維持および運用」

という、三つの柱からなる整合性のある総合的な安全保障政策の構築を進言した。日米安保

関係は依然として重要であるという判断を基に、脅威が分散化する冷戦後の安全保障にと って多角的安全保障協力が重要であることを強調したところに、ポスト冷戦的な特徴があ

った(渡邉)。そして、日本の防衛力のあり方には、新たな安全保障環境に対応した修正を

加えるべきであるとして、「防衛計画の大綱」の見直しを唱えた。

1995 年 11 月に閣議決定された「平成八年度以降に係る防衛計画の大綱」(新大綱)は、

一方で、国際情勢は不透明、不確実であるとの情勢判断にもとづき、日本の自衛隊に、大規

(14)

14

新しい役割を求めた。さらに新大綱は、「我が国周辺地域において我が国の平和と安全に重

要な影響を与えるような事態が発生した場合」に「日米安全保障関係の円滑かつ効果的な運

用を図る」という、いわゆる周辺事態に対する対応を盛りこんだ。

以上のように安全保障政策の再検討が進行する最中に、沖縄におけるアメリカ兵士によ

る少女暴行事件(1995年9月)が発生した。それは、日米当局に沖縄米軍基地問題の深刻

さを再認識させ、1996年4月の普天間基地返還合意を生んだ。その間、新大綱の制定と並

行して作業が進められた日米安全保障共同宣言は、1995 年 11 月の大阪でのAPECサミ

ットに来日する予定のクリントン大統領と村山首相との間で、新大綱の閣議決定と併せて

発表される手はずであった。しかし、クリントン大統領が国内問題を理由に来日を取りやめ、

結局、日米安全保障共同宣言は、1996年4月、普天間基地返還合意発表直後に同大統領が

改めて来日した際に、橋本龍太郎首相との間で公表された。

日米安全保障共同宣言は、日米同盟を「21 世紀に向けてアジア太平洋地域において安定

的で繁栄した情勢を維持するための基礎」であると位置づけ、アメリカが軍事的プレゼンス

を維持することは「アジア太平洋地域の平和と安定の維持のためにも不可欠である」とうた

った。そして、日米防衛協力の一層の制度化をめざして、「日米防衛協力のための指針」い

わゆる「ガイドライン」の見直しを進めることを宣言した。

1997年9月に成立した新「ガイドライン」は、「平素から行う協力」、「日本に対する武力

攻撃に際しての対処行動等」に加えて、「日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に

重要な影響を与える場合(周辺事態)の協力」を盛りこんだ。とりわけ、第三の項目は、1978

年に成立した「ガイドライン」が手をつけることができかった領域であった。しかし、冷戦

の終焉と朝鮮半島情勢の緊迫化は、周辺事態に際して日本が憲法上実施可能な対米協力と

不可能なものを緻密に区別するという作業を可能にした。そして1999年5月に、「周辺事

態法」が成立するのである。

この間、1996年3月の台湾での総統直接選挙に焦点を合わせた中国の軍事演習がエスカ

レートし、1995 年から 96 年にかけて台湾海峡危機が高まったことは、不幸なめぐり合わ

せであった。中国が、一連の日米安保再確認の過程を、中国や台湾問題に対して向けられた

「日米軍事同盟」の強化であると受けとめたからである。その理解は、日米安保関係の脆弱

性に対する深刻な懸念を根本的動機とする日米政策当局の認識とはきわめてかけ離れたも のであったが、中国人の眼にはほとんど常識に等しいほどの確信となってしまった(ワン・

ジェンウェイ「『普通の国』日本をめぐる中国の言説」添谷他編著)。

もっとも、日米安保関係の再確認の根底に、日米同盟の脆弱性に対する危機意識があった

という理解は、日本人の間でも必ずしも共有されていなかった。事実、日米安保関係活性化

の試みが比較的順調に進んだ背景には、国民や政治家の間に着実に広まりつつあった中国 への警戒心があったことは否定できない。直接には中国脅威論とはほとんど無縁の日米政 策当局の思惑を、中国要因が後押ししたのである。

<考察>

(15)

15

は、米国の覇権の衰退と国際的相互依存の深化という1970年代以来の歴史的趨勢の下での

国家戦略の模索であった(渡邊昭夫「『樋口レポート』の歴史的位置づけ」河野・渡邉編著)。

しかしながら、中曽根内閣で確立したとされる日米同盟基軸主義(佐道a)は、結局のと

ころ冷戦後も変わらず、むしろ一層強化されたとする考察が目立つ。「九条=安保体制」を、

憲法九条と日米安保関係のねじれにではなく、その両者間の一種の馴れ合いの構図に注目

する視点からは、大きな流れとしては1960年代後半以降、より個別的には1980年代の日

米安保偏重路線により「九条=安保体制」は終焉に向かったとされる。そして、1990年代

の国連多国籍軍活動への自衛隊の参加は、憲法九条による制約を無効化させ、それは姿を変

えた日米安保主導による日本の軍事的役割の拡大であるとされる(酒井)。

さらに、1990年代の日本の防衛政策を実証的かつ理論的に検証した研究は、新「防衛計

画の大綱(07 大綱)」と新「日米防衛協力のための指針(ガイドラン)」の成立による日米

同盟深化に、21 世紀に入ってからの日米軍事一体化の起源があるといい、「樋口レポート」

に特徴的であった「多角的安全保障」のアイディアは必ずしも受容されなかったことを論じ

る。(柴田)。

また、冷戦後の日米同盟は着実にリアルな安全保障問題に対応するようになったという

観察や(信田b)、さらに一歩進んで、冷戦後の日米同盟が「パワー・シェアリング型同盟」

の要素を備えつつあることを強調し、またその方向に移行させるべきことを論ずる考察も ある(川上)

それとは逆に、「再定義安保」には「安保体制の空洞化」をもたらす論理が内在しており、

事態はクローバルな国連安保システム、アジア地域安保システムへと移行し、日本の防衛能

力は自立的な専守防衛能力に限られるだろうという方向感覚を示す論考もある(室山義正

「冷戦後の日米安保体制」日本国際政治学会編a)。

しかし、パワー(リアリズム)、制度(リベラリズム)、規範(コンストラクティヴィズム)

それぞれの観点から理論的に検討すれば、いずれの視角からも日米同盟は存続するだろう

ことが導かれる。ただ、形としては継続するだろう日米同盟にどのような新しい役割を与え

るのかについては不確実であるという(土山實男「日米同盟の国際政治理論」日本国際政治

学会編a)。

交渉当事者の感性からすると、沖縄米軍基地問題への対応、新防衛計画の大綱、日米ガイ

ドラインの見直しが進んだ1990年代には本格的な戦略的対話が進んだが、その後戦略対話

は停止しているように思えるという(秋山)。

ここで、以上の日米同盟基軸主義の議論と並行して、安全保障政策における新たな地平を

示す論考が必ずしも少なくないことも付記しておきたい。

冷戦後に最初に登場したのは、日米安保体制と多国間協調体制とは、重層的安全保障構造

の下で相互補完的な役割を果たしているとする、地域的な視点である(神谷万丈「アジア太

平洋における重層的安全保障構造に向かって」日本国際政治学会編a)。

さらに最近では、「アジア太平地域における力の配分を基本的な構成要素とし、・・・、同

(16)

16

障アーキテクチャを重層的に理解し、「ハブ・スポークス」の束がネットワーク化し、地域

的枠組みが紛争予防に重要な役割を果たし、アドホックな問題領域における安全保障協力

が発展していることを重視する研究も生まれている(神保編著)。

さらに、日米同盟を論ずる際に、そのグローバル化に着目する考察がある。そこにあるの

は、日米同盟を国際秩序の形成・維持のための「公共財」として意義づける発想である。そ

こには、安全保障問題のグローバル化、同盟国による共通の価値の追求、そして「同盟管理」

という三つの要因が作用していると分析される(佐竹知彦「日米同盟の『グローバル化』と

そのゆくえ」添谷編著)。また別の研究は、日米同盟のグローバル化に、国際秩序の維持機

能、地域抑止態勢の整備・強化、自衛隊と米軍の「一体化」という側面を読み取る(石川卓

「日米安保のグローバル化」遠藤編)。

さらに、1990年代に小渕恵三内閣によって明示的に展開されて以降断続的に強調されて

きているのが、国際社会における重要な課題および日本の安全保障政策の新天地としての

人間の安全保障である(福島)。実は、日本が主導する国連改革や、国連常任理事国入りを

目指す外交で柱に据えてきたのが、人間の安全保障に他ならないという(大島賢三「国連安

保理改革と日本」東編著)。

おわりに

筆者はかつて、「依存や主体性欠如を単線的に問題にするのではなく、一定の依存や主体

性への制約を包摂した戦略の構築こそが、日本の政治の責任というべきだろう。その知的基

盤を提供することは、学界の責任でもある」と書いたことがある(添谷芳秀「吉田路線と吉

田ドクトリン」日本国際政治学会編b)。

戦後憲法と日米安保を共存させようとした吉田の選択を軸に、日本の政治と世論が左右

に分裂したことは周知のとおりである。そして長い間、学界における研究もその対立構造と

無縁ではなかった。本稿での概観からもみられたように、本質的な緊張関係は、憲法がある

がゆえに対米「依存」に始まり対米「依存」に終わるといってもよい外交への制約と、「自

立」の欲求との間に存在した。

その緊張関係が複雑だったのは、米国への「依存」に向けられる「自立」の欲求が、イデ

オロギー的に左右に分裂していたことであった。可能であれば究極的には米国からの「自立」

を望む「右」は当面対米「対等化」を望み、左は「護憲」の立場から対米「依存」の清算を

望んだ。そうした感性からは、「依存」は「従属」や「外圧」と同一視されがちであったと

いえるだろう。こうして国内政治におけるイデオロギー対立の歪みが、もっぱら日米安保体

制にのしかかってきたのである。

望む「自立」の姿が左右で異なっていたことは、結局のところ憲法改正論議や安全保障政

策論議が、真の戦略論につながらず、不毛な論争に終始した根源的な要因であっただろう。

その問題の根は、自立、自尊心、ナショナリズムという精神構造へと達していそうである。

(17)

17

高坂を戸惑わせることになったのは、要するに日本の国力増大に伴って日本人の中に自尊 心とナショナリズムが強まり、そのことが日本人に視圏の拡大よりも視野狭窄をもたらし

たことであった。」右からであれ左からであれ、「自立」への希求が外交的制約に対する感情

的反発に帰結するなら、「本格的な自立を希求する時、孤立の危険は常につきまとう」ので

ある(中西寛「権力政治のアンチノミー―高坂正堯の日本外交論」五百旗頭・中西編所収、

209頁、213—14頁)。

参照文献

秋山昌廣『日米の戦略対話が始まった―安保再定義の舞台裏』亜紀書房、2002年

五百旗頭真『占領期―首相たちの新日本』読売新聞社、1997年

五百旗頭真・中西寛編『高坂正堯と戦後日本』中央公論新社、2016年

井上寿一『終戦後史 1945-1955』講談社選書メチエ、2015年

井上寿一・波多野澄雄・酒井哲哉・国分良成・大芝亮編『日本の外交 第6巻 日本外交の

再構築』岩波書店、2013年

植村秀樹『再軍備と五五年体制』木鐸社、1995年

衛藤審吉・山本吉宣著『総合安保と未来の選択』講談社、1991年

遠藤誠治編『日米安保と自衛隊』岩波書店、2015年

遠藤誠治・遠藤乾編『安全保障とは何か』岩波書店、2014年

太田昌克『日米「核密約」の全貌』筑摩書房、2011年

大嶽秀夫『日本の防衛と国内政治』三一書房、1983年

『外交フォーラム(緊急増刊)<日本の安全保障>』9巻7号(1996年6月)

我部政明『戦後日米関係と安全保障』吉川弘文館、2007年

川上高司『米軍の前方展開と日米同盟』同文舘、2004年

楠綾子『吉田茂と安全保障政策の形成―日米の構想とその相互作用 1943~1952年』ミネ

ルヴァ書房、2009年

黒崎輝『核兵器と日米関係―アメリカの核不拡散外交と日本の選択 1960-1976』有志

舎、2006年

高坂正堯『海洋国家日本の構想』中央公論社、1965年

河野康子『沖縄返還をめぐる政治と外交―日米関係史の文脈』東京大学出版会、1994年

河野康子・渡邊昭夫編著『安全保障政策と戦後日本 1972~1994―記憶と記録の中の日米安

保』千倉書房、2016年

酒井哲也「『九条=安保体制』の終焉―戦後日本外交と政党政治」『国際問題』No. 372

(1991年3月)

坂元一哉『日米同盟の絆―安保条約と相互性の模索』有斐閣、2000年

(18)

18

佐道明広b『戦後政治と自衛隊』吉川弘文館、2006年

柴山太『日本再軍備への道 1945~1954年』ミネルヴァ書房、2010年

信田智人a『冷戦後の日本外交』ミネルヴァ書房、2006年 信田智人b『日米同盟というリアリズム』千倉書房、2007年

篠田英朗『集団的自衛権の思想史―憲法九条と日米安保』風行社、2016年

柴田晃芳『冷戦後日本の防衛政策―日米同盟深化の起源』北海道大学出版会、2011年

島袋純・阿部浩己編『沖縄が問う日本の安全保障』岩波書店、2015年

神保謙編著『アジア太平洋の安全保障アーキテクチャ―地域安全保障の三層構造』日本評

論社、2011年

添谷芳秀a『日本の「ミドルパワー」外交―戦後日本の選択と構想』ちくま新書、2005年

添谷芳秀b『安全保障を問いなおす―「九条‐安保体制」を越えて』NHKブックス、2016

添谷芳秀c『日本の外交―「戦後」を読みとく』ちくま学芸文庫、2017年

添谷芳秀編著『秩序変動と日本外交―拡大と収縮の七〇年』慶応義塾大学出版会、2016年

添谷芳秀、田所昌幸、デイヴィッド・A・ウェルチ編著『「普通」の国 日本』千倉書房、

2014年

田中明彦a『新しい中世―21世紀の世界システム』日本経済新聞社、1996年

田中明彦b「1970年代の安全保障政策の転換―『冷戦終結』のリハーサル?」『外交フォ

ーラム』Vol. 9, No. 7(1996年6月)

田中明彦c『安全保障―戦後50年の模索』読売新聞社、1997年

豊下樽彦a『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交』岩波新書、1996年

豊下樽彦b『昭和天皇の戦後日本―<憲法・安保体制>にいたる道』岩波書店、2015年

永井陽之助a『平和の代償』中公叢書、1967年

永井陽之助b『現代と戦略』文藝春秋、1985年

中島信吾『戦後日本の防衛政策―「吉田路線」をめぐる政治・外交・軍事』慶應義塾大学

出版会、2006年

中島琢磨a『沖縄返還と日米安保体制』有斐閣、2012年

中島琢磨b『高度成長と沖縄返還 1960~1972』吉川弘文館、2012年

中西寛『国際政治―地球社会における人間と秩序』中公新書、2003年

日本国際政治学会編a『日米安保体制―持続と変容(国際政治 115)』有斐閣、1997年5 月

日本国際政治学会編b『吉田路線の再検討(国際政治 151)』有斐閣、2008年3月

日本政治学会編『危機の日本外交-70年代(年報政治学 1997)』(岩波書店、1997年)

波多野澄雄『歴史としての日米安保条約―機密外交記録が明かす「密約」の虚実』岩波書

店、2010年

波多野澄雄編著『冷戦変容期の日本外交―「ひよわな大国」の危機と模索』ミネルヴァ書

(19)

19

波多野澄雄編『日本の外交 第2巻 外交史 戦後編』岩波書店、2013年

服部龍二a『大平正芳―理念と外交』岩波書店、2014年

服部龍二b『中曽根康弘―「大統領的首相」の軌跡』中公新書、2015年

原彬久『戦後日本と国際政治―安保改定の政治力学』中央公論社、1988年

東大作編著『人間の安全保障と平和構築』日本評論社、2017年

樋渡由美『専守防衛克服の戦略―日本の安全保障をどう捉えるか』ミネルヴァ書房、2012

福島安紀子『人間の安全保障―グローバル化する多様な脅威と政策フレームワーク』千倉

書房、2010年

福永文夫編『第二の「戦後」の形成過程―1970年代日本の政治的・外交的再編』有斐閣、

2015年

船橋洋一『同盟漂流』岩波書店、1997年

増田弘『自衛隊の誕生―日本の再軍備とアメリカ』中公新書、2004年

宮里正玄『日米関係と沖縄 1945-1972』(岩波書店, 2000年)

室山義正a『日米安保体制(上)―平和憲法制定から沖縄返還まで』有斐閣、1992年

室山義正b『日米安保体制(下)―ニクソン・ドクトリンから湾岸戦争まで』有斐閣、

1992年

宮城太蔵『現代日本外交史―冷戦後の模索、首相たちの決断』中公新書、2016年

吉田真吾『日米同盟の制度化―発展と深化の歴史過程』名古屋大学出版会、2012年

若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス 〈新装版〉』文藝春秋、2009年

渡邊昭夫『大国日本の揺らぎ 1972~』中央公論新社、2000年

参照

関連したドキュメント

⑹外国の⼤学その他の外国の学校(その教育研究活動等の総合的な状況について、当該外国の政府又は関

政治エリートの戦略的判断とそれを促す女性票の 存在,国際圧力,政治文化・規範との親和性がほ ぼ通説となっている (Krook

海洋のガバナンスに関する国際的な枠組を規定する国連海洋法条約の下で、

副学長(国際戦略) 担当部署: 国際戦略本部  施策: 海外協定大学の増加 

開発途上国では SRHR

欧州系としては次の 4 誌を主要ジャーナルとする。まず、 International Affairs ( IA )は 1922

中南米では歴史的に反米感情が強い。19世紀

本章では,現在の中国における障害のある人び